シエラレオネで感じる経済学 (3)トイレ掃除の公共財ゲーム シエラレオネ事務所 西野義崇

2019/03/15

前回の記事(シエラレオネで感じる経済学(2) 電器店のホテリング・ゲーム)では、ゲーム理論の目で身の回りの事柄を眺めてみると、その仕組みが理解できて面白い、ということを書きました。

今回のテーマは「公共財ゲーム」です。

私たちの事務所が入っている政府の合同庁舎ビルは、1980年代初頭に中国の援助によって建設されましたが、その後、適切なメンテナンスが行われておらず、現在ではボロボロになっています。水道が頻繁に止まり、トイレも清潔な状態とは言い難いものです。犯罪心理学などで「割れ窓理論」として知られている理論があります。建物の窓が割れたまま放置されていると、誰もその状況を気にかけていないというシグナルとなり、ごみのポイ捨てなどが増え、更には治安が悪化してゆく、というものです。この理論が現実社会においてどれほど犯罪を予防するための政策に寄与しているかについては議論があるようですが、少なくとも「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という状況は確かにありそうです。つまり、トイレに紙やプラスチックパックなどのゴミがポイ捨てされていて、それが放置されていると「自分も捨てていいんだ」と思ってしまい、みんながゴミをポイ捨てするようになる。そして、「あのトイレはどうせ汚いから」と思って、自分もポイ捨てをすると、その結果として本当に汚くなっていく、ということになります。

劣悪な状態のトイレ(これでもきれいに掃除されている方)

これはゲーム理論の言葉では「予言の自己成就」などと呼ばれます(このような現象は、共有の牧草地に羊飼いたちがめいめい勝手に羊を放牧すると、やがて牧草が食い尽くされてしまう、という「共有地の悲劇」としても説明ができるかもしれません)。これはどういうことかと言うと、今では日本のエスカレーターは立ち止まったまま2列に並んで乗ることが推奨されていますが、関東では左側の列では立ち止り、右側の列は急ぐ人が歩く、関西ではその逆になる、という現象が見られていました。別に左側で立ち止まろうが右側であろうがよいのですが、関東では「みんな左側で立ち止まる」と思うから、自分も左側では立ち止まる、関西ではその逆になっているにすぎません。このように、どちらでも良いけれども、みんながそうするからそれに合わせた結果、二つの異なる均衡状態がパラレルに存在するというゲームの構造は「調整ゲーム (coordination game)」と呼ばれます。

トイレの例に戻れば、例えば日本のオフィスビルなら大体の場合、トイレは清潔に保たれているでしょう。みんなが清潔にするのが当たり前だと思っていますから。でも、シエラレオネのこの合同庁舎では、残念ながら汚いトイレのほうが実現してしまうのです。このように、他の人の行動(戦略)を考慮したうえで、自分に最も都合の良い(利得が高い)状態を探ってゆくと、ある状態に落ち着くのですが、その状態のことを、ゲーム理論の大成者ジョン・ナッシュの名前を取り、「ナッシュ均衡」と呼びます。

さて、ある日、同じフロアのオフィスの人が、このように汚い状態のトイレを見るに見かねて、こんな提案をしました。「各オフィスから毎週10,000レオン(約127円)ずつ集めて、清掃員を雇ってトイレ掃除をしてもらおう」というものです。最初はうまくいきましたが、ある時、清掃員さんが体調をくずして入院することになってしまい、それからというもの、トイレ掃除はうやむやになってしまいました。

きちんとお金が集められ、きちんと清掃がされれば、みんな喜んでお金を出すでしょう。しかし、お金の管理が曖昧で、あるオフィスが「今、お金がないからちょっと待って」と言って払うのを渋ると、まじめに払っている他のオフィスの人が馬鹿らしくなって払うのをやめてしまうかもしれません。このような現象は、行動経済学という、人間の経済行動を分析する、経済学と心理学の融合領域のような分野において「公共財ゲーム」という実験によっても確かめられています(他の人が全くお金を払わないと、自分だけが損をすることになるので、各自が全くお金を出さないことがナッシュ均衡になります)。理論的にも、公共財への貢献度合いを自ら感じる「効用」に基づいて、その取りまとめをする「政府」に拠出をすると、自分の「効用」を少なめに申告し、全員が満足できるような最適な供給量より少なくなってしまうため、「リンダール均衡」と呼ばれる最適な状態が満たされなくなってしまうことが知られています。

ここからは私の感想ですが、もちろん「他の人がお金を出してくれるのならそれに乗っかろう」という、ずるい人(「フリーライダー」と呼ばれる)が出てくるということもありますが、おそらく、もともとトイレは汚いものだと思っている人に「トイレをきれいにしましょう」と、教科書的な「正答」を言っても、その価値を感じられない、という問題があるのかもしれません。先日、シエラレオネ政府が水道料金を支払っていないために、政府の庁舎の水道が数週間にわたって止められるという事態が起こりました。その結果、トイレがひどい状況になっているにも関わらず、誰も対処しようとしないのです。不衛生なトイレは感染症の危険も増し、健康にとって良くないことは明らかなのですが(ちなみに、私がトイレを利用する際、私自身の効用が著しく下がるので、外で水を買ってくる代金、洗剤など清掃に必要な費用などは、とりあえず私が全額出しました)。

ビルの水道が止められ、トイレや掃除のために水を使ったことで干上がってしまった池

個人の「効用」をベースとした自由意思と、「命」や「健康」に価値を置いた、ややパターナリスティックな価値観との間にトレードオフがある場合もあるでしょう。例えば、不健康な食生活や喫煙を続ける人に対し、自由意思を尊重すべきでしょうか、それとも「健康」に価値を置いた介入をすべきでしょうか。自由意思を尊重しながら、より良い方向に向いてもらうための仕組みとして、行動経済学などでは「ナッジ (nudge)」が注目されています。もともとは、注意をひくために肘などで軽くつつく、といった意味合いですが、望ましくない選択をする余地も残しながら、本人の自由意思で、より望ましい選択をしてもらうための工夫のことを言います。例えば、食べ放題のビュッフェに行くと、最初に野菜が置かれていることが多いことに気付かれた方がいるかもしれません。人間はおなかがすいている状態でビュッフェに行くと最初に出会った食べ物をたくさん取ろうとします。そこに脂っこい肉や揚げ物などを置いておくよりも、野菜を置いておいたほうが、より多くお皿に取ってくれて、健康にも貢献しそうですね。

果たして、このトイレがきれいになるための「ナッジ」はどんなものなのか、頭を悩ませています。