Case#1


 
きっかけは、通勤電車でふと見た「青年海外協力隊 秋募集」のつり革広告だった。勤めていた会社から一番近い説明会会場(大阪府立体育館)に着いた時には、説明会はすでに始まっていたが、あまりにも多い参加者の数に驚いた。「こんなにも人が来るんだ」
 
協力隊のPR映像を見、担当者の説明を受けてすぐ「自分には無理だ、世界が違う」、そう思った。海外どころか本州からも出たことのなかった私にとって、テレビでしか見たことのない開発途上国での生活や技術支援は、ハードルが高かった。諦め気分で帰宅したが、もらった資料を読み進めていくと、行けるかもしれないという気がしてきた。元々、国際協力への参加を目指していたわけではなかったが、一歩踏み出してみると案外気持ちが前へ進むようで、いつの間にか協力隊を目指していた。
 
数ヵ月後に「職種:自動車整備、派遣国:ザンビア共和国」と記載された合格通知を受け取り、初めて外国に行くことになった。物がないことはある程度予想していたが、ザンビア人の同僚やその家族、友人がどんどん病気で亡くなっていく状況には驚いた。途上国はどこもこんな感じなのか? 協力隊員としての2年間は教えることよりも教わることの方が多く、ここで経験したことや学んだことが、私にとって国際協力の原点になったと思っている。
 

 
技術屋だった私は帰国後、民間企業に再就職したが、もう一度海外に出たいという気持ちを持っていた。そして縁があり、ミャンマーで活動するNGOの駐在員として同国とバングラデシュとの国境地域に赴任し、農村開発に携わることになった。
 
正直、NGOはボランティアだと思っていたが、国連や政府機関と対等なパートナーシップを組み、なおかつ草の根の目線でコミュニティと連携したプロジェクトを展開しているのを見て、「あぁ、プロフェッショナルなんだ」と感じた。自分にもできるのか?という葛藤を抱え、がむしゃらの毎日だったが、私のNGOスタッフとしての原点は、ここにある。
 
国際協力を「職業」とする原点は、AMDAグループに入ったことだった。アフガン難民緊急医療支援の調整員としてパキスタンに派遣されることが決まり、岡山市にあるAMDAの本部を訪問した際、AMDAの人道援助三原則を学んだ。その最初に「誰でも人の役に立ちたい気持ちがある」と書かれてあるのを見て、何度も赴任と帰国を繰り返してきたのに、また海外の現場に行こうとしている自分の気持ちの根っこにあるものを目にした気がした。そして、これを職業にしようと決めた。自分の中で、すべてが腑に落ちた瞬間だった。
 
NGOの仕事は、人から与えられてすることより、自ら生み出すものの方がはるかに多い。そして、それは新しい価値を創造する。
 
(海外事業運営本部 山上正道)