6月のことになるが、緬甸果敢第一特別区(ミャンマー・コーカン特別区)へ出張し2週間ほど滞在した。
同地区については、すでに事業報告会やニュースレターなどで何度か紹介させていただいているが、当法人の事業地の中でも色合いが顕著な場所だと感じている。
活動実施村を訪問するため、老体にむちを打ち、フーフー言いながら山道を歩いていると、現地スタッフから「あの尾根の向こうは中国ですよ。そして老街(ラオカイ)市はあっちの方ですよ。」と告げられる。特別区の中心地であるラオカイ市は、他の場所と同様、人が住み、市場があり、経済活動が行われ、音楽が鳴るごく普通の町ではあるが、異なる文化や言語がある種の緊張感を持って混在する特別な場所でもある。
伝統的な暮らしを続けている少数民族が多く居住する中国国境沿いの山岳地帯であることに加え、紛争地でもないのに「当局」機能が2つあることもそう感じさせる理由の一つかも知れない。
2つの当局機能とは、ミヤンマー政府と果敢特別区中央委員会である。和平合意締結以来、果敢側に自治権が付与されてきたため、また人口の殆どはミャンマー語を解さないので、ミャンマー政府側も少し遠慮がちに統治している様子である。一般のミャンマー人もどことなく遠慮がちにそぶりかのように見えるのは気のせいだろうか。
同特別区は、ミャンマーに属しながら中国の圧倒的な影響を受け、よって普段使用される現地通貨も元である。また電気は中国から供給され、携帯電話も中国企業によるサービスが利用されている。さらにこの地で収穫されたほとんどの農産物は、その販路を中国側に依存している。
インフラの整備状況もここ数年の間にまさに始まったばかりで、すべての郡が電化されたベトナム北部の山岳地域とは30年程の開きがあると感じる。
ミャンマー側へ通じるためには、税関や検問所を抜けなければならず、中国側へはほぼ自由に行き来できることを考えると交易や輸送に携わる人々にとって大きな負担になっている。
人口15万人とも16万人も言われる同地域は、2002年までケシの一大栽培地であった。したがって、アフガニスタンやコロンビアなどとも共通の問題を抱えている。それが故に、ケシ栽培に依存しないこの地域の開発や発展は、遠いアメリカやブラジル、そして日本などの社会平和とも直接的、間接的なつながりを持っている。
歴史を遡ると、第二次世界大戦中日本軍がこの地に兵を進めている。もちろん、戦争という名の下に残虐な行為が繰り返されため、抗日記念碑なども建立されている。
さて8月30日、日本が衆議院議員選挙で盛り上がる中、産経新聞に一つの記事が掲載された。
コーカン特別区で起きた一連の事件に関する記事で、見出しは「一万人超が中国避難・総選挙控え少数民族に圧力」であった。北京とシンガポールに駐在する特派員による取材記事であったが、過去の歴史にまで記述が及んでおり、字数制限がある中で良く書けた内容だった。さらに、東京の記者が同地区で事業を展開する当法人に取材をし、特派員の記事を補足するなど、記事作りに対する入念さが伺えた。しかしながら、本件の一因はコーカン当局側の内紛にあると語られていたにもかかわらず、その情報が抜け落ちており、ミャンマー政府と少数民族が対立している構図だけが浮き彫りにされたという点で偏りが感じられた。
いずれにしても、ミャンマーでは来年5月に総選挙の実施が予定されており、その準備段階で、これまで比較的安定を保ってきたミャンマー政府と国境地域に住む少数民族との間に、少なからぬ緊張関係が生まれつつあることを推察するに難くはない。これはコーカン地区だけに限らず、隣接するワ地区やカチン地区においても言えることである。
ミャンマー政府がこれらの課題をどのように乗り切っていくのか、そして日本政府や国際社会がどのように知恵を絞り協力していくことになるのか注目していきたい。もちろん、当法人も微力ながら人道支援と開発協力を続け、同地区の安寧に貢献していく所存である。
実は、同地区で緊張状態が続いた10日あまり、当法人のスタッフをはじめ、現地で活動する国際NGOの職員は、WFPのラオカイ事務所に避難する事態となった。
ミャンマー側のラショーへ抜ける道中で安全が確保されなかったためすぐに退避することはできず、いわば缶詰状態となった。幸い事態が収束したため、9月3日にラショーまで移動することができ事なきを得た。当法人のスタッフも全員無事でいることが確認できた。
WFPコーカン事務所の方々に心より御礼申し上げるとともに、ご心配をおかけした日本国大使館や国際機関の関係者の方々に感謝申し上げたい。またヤンゴン事務所で眠れぬ夜を過ごした職員の方々にお疲れ様を言わせていただきたい。そして最後に、コーカン特別区でこれからも続く当法人の人道支援に対し、皆さまからの温かいご理解とご協力を賜りたいと願う。 |